結局、マインドフルネスってなに?ーとりあえず最後
マインドフルネスについていろいろ調べて、分かったことにしましたが、
ヨーガ・スートラ(真下尊吉著、サーンキャとヨーガ)にちゃんと書いてありました。
それも、もっと具体的に。第二章ー49あたりからです。
アーサナを採り呼吸の呼息、吸息、保息に気づきを深めていくことが制感ですが
これは、マインドフルネスの説明と一致するというかそれ以上の説明です。
しかし、実際やってみると難しさが半端ないです。
アジュナ―(アーギャ―)チャクラ瞑想の状態に持っていかれます。
アウン瞑想(オーム呼吸法)をやりこんでからのほうがよさそうです。
でも、一応自分の中では腑に落ちたので一件落着にします。
次からは別のテーマで書きます。(3,4日か出張です)
結局、マインドフルネスってなに?-2
昨日はM-1を見てしまい何も書かなかったのでその代わり。
マインドフルネスとは何をするのかということについて、
まず、呼吸に集中して、心を落ち着かせる。
次に、落ち着いた心で「自分」に気づくとします。
意識を自分の体や呼吸や心に向けて自分を探査します。
自分の状態を見るだけです。それ以上はしません。気づくだけです。
それ以上は「瞑想」になってしまう。
プラッティヤハーラ(制感)とディヤーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)は違うらしい。
とりあえず、初心者は制感をめざします。制感法もいろいろあるけど、
マインドフルネスといったときは、
呼吸に意識を集中して、吐く息と吸う息と止まっている息(呼息・吸息・保息)に
気づいて、さらに意識を向けて、それぞれの息の何かに気づいていくことで
体のこと、プラーナ(気のエネルギー)のこと、心のことつまり自分に気づいていきます。
ごちゃごちゃ考えたりはしない、余計なことはしないで、マインドがフルな状態を
保ちます。
初心者はここまで、ハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガには質的な違いというか次元が違うというか乗り越える何かがあると感じます。
そこを乗り越えられれば本当のヨーガ行者になるのでしょう。
結局、マインドフルネスってなに?-1
前回いろいろ悩みましたが、マインドフルネスとは
「集中して、気づくこと」と簡素に表現します。
四大ヨーガ、仏教各派、その他の精神を扱う様々な分野において、
何に集中するか、何に気づくということについて違いがあるので、
マインドフルネスを指導する先生の出自によってイメージが違うということです。
馬蔵はラージャ・ヨーガ派なので、「マインドフルネスにおける集中は、呼吸に」
とします。聖典に「心と呼吸は一つの樹から分かれた二つの幹」心が乱れれば呼吸も不規則、呼吸が静かなれば心も穏やかとあるからです。
仏教は小乗・大乗各派でそれぞれ違いがあるのでそちらに任せ、ジャイナ教はまったっく知らないので、ノータッチ。イスラムも瞑想はあるけど~専門外。その他もそれぞれ専門家に任せます。
呼吸に集中といっても、プラーナーヤーマ⁼呼吸法のどれかの呼吸を使ってそれに集中
というのからはじめるのも面白いなと思ってます。
漠然とした「普通の呼吸」「自然呼吸」に集中するのはちょっとレベルが高いかなと。
今日はここまで、次は気づき=瞑想について
統合医療
11月25,26日は統合医療学会に参加してきました。
たくさん番組がありすぎてどれに参加すべきか大変迷いました。
出席した番組の感想だけ書きます。
1 基調講演は、まさしく統合医療の基調を報告されていて、大変感銘を受けたのですが忘れました。
2 大会長講演は患者の立場からはきつい内容でした。こんな患者にしたのは日本の教育と医師会の責任だと思いますが、それにもめげず、21世紀の患者として変化しなければいけませんね。
3 O-ringテストがこんな学術的な団体だとはつゆ知らず、驚きました。私も治療に使っていますが、なかなか奥が深いですね。
3-2TFTという技法があること知りました。詳しくはHPで。
4 冷え性の生理学的な探求は、たいへんわかりやすかったです。
300文字を超えると途端にPCの調子がおかしくなりますんでここまで、いやもう少し
5 呼吸による身心健康法ー科学者がやるとこういう風になるのかと思いました。
6 温泉療法の科学的根拠ー大変わかりやすかったです。純粋科学とは物理学しかなく科学と呼べるのは物理学を基礎とする化学までという私的見地から、温泉の人体に対する効果のプロセスが化学・物理学で説明されている感じがよかったです。
7 鍼灸按摩マッサージ指圧はそういう意味では、科学の対象ではなく、科学的根拠を求められても、物理学・化学をもちいた生体の説明=生理学にしかならず、鍼灸独自の理論を展開してもみとめられないという現状と、しかし、効果・結果は厳然としてあるという苦しい状況はよく理解しています。が、それ以外に社会的状況がこれほど厳しいとは驚きでした。
8 ヨーガ療法が科学的というより、実証実験をかさね癌などに対しては米国では「推奨度B」なっているというのは驚きでした。日本ではまだまだですが。
9 GABAに注目したおいしい玄米のたき方(双葉玄米)やってみたいと思います。
10 ホメオパシーはちょっと・・・という感じが今までしていましたが、スギ花粉に対する舌下療法との比較は完全にホメオパシーの優勝ですね。もう少し早く知りたかったです。
第一日目をざった書き出しました。詳細はいつか明日は二日目を書くぞ。
マインドフルネス2
マインドフルネスの感想
一晩たって、マインドフルネスについて、考えがまとまってきたので記録します。
マインドフルネスは何か
鈴木大拙の禅の用語である「念」をアメリカ語に翻訳したのが、マインドフルネスであると、立ち読みしたマインドフルネスの本にかいてあった。(書名は忘れました)
大谷彰著「マインドフルネス入門講座」ではーmindfulnessとは元来「開放的で、とらわれのないこころの状態」を意味します。日本語の「気をつける」とか「目を届かせる」といった状態と考えるとよいでしょう。—と書いていらっしゃいました。
私、馬蔵といたしましては「念」とは「気をつる」「気をくばる」「気になる」などの「気」がマインドフルネスの正体ではないかと、思い当たりました。
気にもいろいろあるけど
漢方にも気が出てきます。というより、漢方は気を扱う医術だと思いますが、この気は
ヨーガの五蔵説の2番目「生気鞘」で扱う生体エネルギーと同じではないかと感じています。物質としての肉体に生命活動を起こさせる(肉体を身体に変える)のが生気=プラーナだと思います。
しかし、念としての気は、物質寄りの気ではなく、精神とか心理とか言われる分野のもので、心理器官の一つとしていいものだと思います。漢方的には「意」かな?(意の仲間には神・精・魄・魂があるけど漢方は考えないことに)
カバットジンは「注意を払う特定の方法」としていますが、方法というより「念」というもののようなものとしてまたは、心理器官として扱ったほうが分りやすいと思もいます。
「念」は気のように働く(動く)性質があるとしておきます。
マインドフルネス=念の性質・特性
気はよく動きます。念もよく動きます。じっとしているのが苦手です。
念は感じたり、考えたり(あとなんだろ?心の働きもいろいろあるけど)したりはしませんし、できません。感受や考慮は他の心理器官=精神・心理の能力・役割で念の能力・役割ではありません。ただ、あらゆるところに動き回って他の心理器官=精神・心理とそれとを繋ぐ、接続するだけです。
つまり、念は何かに何かを繋ぐ能力、それに焦点を当てる能力であって感じたり、考えたりするのは繋がれたものであり、フォーカスする能力・状態と写されたフイルムとは違うということです。
だから、マインドフルネスの定義でカバットジンが「注意を払う特定の方法で、意図的であり、現時点に焦点を定め、価値判断を下さない」としているのだと思います。
勝手に(1秒間に何回も動く)「念」をわざと(意図的に)「今ここに」固定してしまい、その他の精神・心理活動を働かさないとするのがマインドフルネスでしょう。
ヨーガの立場からのマインドフルネス (あくまで個人の感想です)
ヨーガの修行の5段目は制感法=プラッティヤハーラです。
これは、ある感覚器官を一つの物に向けて、他には向けさせないことをず~とする。
そういう修行です。つまり、蠟燭の炎・灯に眼・視線を向けて固定したらずっとそのまま、瞬きもしてはいけません。死なない程度に呼吸はokです。(体調が悪い時にやったら10分できました。普段はすぐに瞬きしてしまいます)
マインドフルネスは静か座り、呼吸に注意を固定します。つまり身体感覚を使って呼吸に意識を向け続けるということです。
まっ、同じですね。制感法のほうがバリエーションはたくさんあります。(振り子時計の音に固定するなどです)
マインドフルネスは仏教特にテーラワーダ仏教の瞑想法から派生したといわれています。
(カバットジンは禅宗(韓国の)を修行したと書かれた本がありましたし、鈴木大拙は戦前の日本の禅宗ですし、ほかにチベット仏教が基本にあるという書き方も見受けられます。つまり、もとになった瞑想には、小乗の立場、大乗の立場、仏教、チベット仏教、梵教などの影響があり人によってニュアンスがちがっているのがアメリカ発の現代マインドフルネスだと推測されます。また、ビジネスマインドフルネスや臨床マインドフルネスは宗教色を取り除こうとしてきましたので、現代社会の価値観に迎合するテクニック・スキルに変化しているといわれています)
テーラワーダ仏教瞑想法はヴィパッサナ―瞑想(観想)とサマタ瞑想(止観)に大別されるといわれています。ですからマインドフルネスにも集中の瞑想と洞察の瞑想があり、現代マインドフルネス(個としての成長、人類としての進化などを願っているという意味で現代的)には慈悲の瞑想があります。(だから、現代価値観に適用するするためのスキルとしての、ビジネス・臨床・軍隊マインドフルネスには慈悲の瞑想のような、善なる人格を再構築する瞑想は入っていない)
で何が言いたいのかというと制感法との比較であるがpcが動かなくなってきたので
つづく
マインドフルネス
認定ヨーガ療法士会富山の一日勉強会に行ってきました。
福井からご夫婦で講師の先生が来られての勉強会でした。
療法士会富山の会員以外の方も多数参加されていて、大研修室は満員でした。
マインドフルネスは仏教ヨーガをもとに作られたのでヨーガ療法士にとっては馴染み易いものですが、会員以外の方も、実習を楽しんでおられました。
講師の先生独自の技法もあり、大変参考になりました。
詳しい内容は誰かが書いていると思うので個別の技法は割愛ですが、
仏教マインドフルネスはヨーガ・スートラより古い形式なのだと思いました。
ヨーガ療法も発足して90年以上たちまして、新しい形に変革されていますが、
現代マインドフルネスのほうが、最新の脳科学などに馴染み易く現代的です。
臨床マインドフルネスにはヨーガの本筋を知らない人たちによって矮小化された感が
ありますが、
現代マインドフルネスには伝統の本筋をなんとか守りつつ、現代化しているのだと
感じました。
スワヒリ語
マッサージにケニアの選手が来てくれるのですが、
いつまでたっても日本語を覚えてくれません。
「どこいたい?」彼が手で背中をさする。それであとは無言で治療に入る。
脈を診るとちょっと「風邪」の脈。
背中を診る(背候診する)と、カゼのツボが出ていて、日本人なら、風熱の鍼をして、
お灸をして「風邪」の手当てをしてからマッサージするのだけど、
鍼とか灸とかの説明が難しいので全部、手技でやりました。
時間がかかる。
治療の後で、先日買ったばかりのスワヒリ語の辞書を差し出しながら
「かぜ、わかる?」と聞いたら、ページをめくってhomaを指さしました。
「熱」と書いてありました。サンスクリットなら護摩祈祷(ホーマー)だけど、
どこかに簡単な医療用スワヒリ語のパンフレットでもないかしら。