マインドフルネス2

マインドフルネスの感想

一晩たって、マインドフルネスについて、考えがまとまってきたので記録します。

マインドフルネスは何か

鈴木大拙の禅の用語である「念」をアメリカ語に翻訳したのが、マインドフルネスであると、立ち読みしたマインドフルネスの本にかいてあった。(書名は忘れました)

大谷彰著「マインドフルネス入門講座」ではーmindfulnessとは元来「開放的で、とらわれのないこころの状態」を意味します。日本語の「気をつける」とか「目を届かせる」といった状態と考えるとよいでしょう。—と書いていらっしゃいました。

私、馬蔵といたしましては「念」とは「気をつる」「気をくばる」「気になる」などの「気」がマインドフルネスの正体ではないかと、思い当たりました。

気にもいろいろあるけど

漢方にも気が出てきます。というより、漢方は気を扱う医術だと思いますが、この気は

ヨーガの五蔵説の2番目「生気鞘」で扱う生体エネルギーと同じではないかと感じています。物質としての肉体に生命活動を起こさせる(肉体を身体に変える)のが生気=プラーナだと思います。

しかし、念としての気は、物質寄りの気ではなく、精神とか心理とか言われる分野のもので、心理器官の一つとしていいものだと思います。漢方的には「意」かな?(意の仲間には神・精・魄・魂があるけど漢方は考えないことに)

カバットジンは「注意を払う特定の方法」としていますが、方法というより「念」というもののようなものとしてまたは、心理器官として扱ったほうが分りやすいと思もいます。

「念」は気のように働く(動く)性質があるとしておきます。

マインドフルネス=念の性質・特性

気はよく動きます。念もよく動きます。じっとしているのが苦手です。

念は感じたり、考えたり(あとなんだろ?心の働きもいろいろあるけど)したりはしませんし、できません。感受や考慮は他の心理器官=精神・心理の能力・役割で念の能力・役割ではありません。ただ、あらゆるところに動き回って他の心理器官=精神・心理とそれとを繋ぐ、接続するだけです。

つまり、念は何かに何かを繋ぐ能力、それに焦点を当てる能力であって感じたり、考えたりするのは繋がれたものであり、フォーカスする能力・状態と写されたフイルムとは違うということです。

だから、マインドフルネスの定義でカバットジンが「注意を払う特定の方法で、意図的であり、現時点に焦点を定め、価値判断を下さない」としているのだと思います。

勝手に(1秒間に何回も動く)「念」をわざと(意図的に)「今ここに」固定してしまい、その他の精神・心理活動を働かさないとするのがマインドフルネスでしょう。

ヨーガの立場からのマインドフルネス (あくまで個人の感想です)

ヨーガの修行の5段目は制感法=プラッティヤハーラです。

これは、ある感覚器官を一つの物に向けて、他には向けさせないことをず~とする。

そういう修行です。つまり、蠟燭の炎・灯に眼・視線を向けて固定したらずっとそのまま、瞬きもしてはいけません。死なない程度に呼吸はokです。(体調が悪い時にやったら10分できました。普段はすぐに瞬きしてしまいます)

マインドフルネスは静か座り、呼吸に注意を固定します。つまり身体感覚を使って呼吸に意識を向け続けるということです。

まっ、同じですね。制感法のほうがバリエーションはたくさんあります。(振り子時計の音に固定するなどです)

マインドフルネスは仏教特にテーラワーダ仏教の瞑想法から派生したといわれています。

(カバットジン禅宗(韓国の)を修行したと書かれた本がありましたし、鈴木大拙は戦前の日本の禅宗ですし、ほかにチベット仏教が基本にあるという書き方も見受けられます。つまり、もとになった瞑想には、小乗の立場、大乗の立場、仏教、チベット仏教、梵教などの影響があり人によってニュアンスがちがっているのがアメリカ発の現代マインドフルネスだと推測されます。また、ビジネスマインドフルネスや臨床マインドフルネスは宗教色を取り除こうとしてきましたので、現代社会の価値観に迎合するテクニック・スキルに変化しているといわれています)

テーラワーダ仏教瞑想法はヴィパッサナ―瞑想(観想)とサマタ瞑想(止観)に大別されるといわれています。ですからマインドフルネスにも集中の瞑想と洞察の瞑想があり、現代マインドフルネス(個としての成長、人類としての進化などを願っているという意味で現代的)には慈悲の瞑想があります。(だから、現代価値観に適用するするためのスキルとしての、ビジネス・臨床・軍隊マインドフルネスには慈悲の瞑想のような、善なる人格を再構築する瞑想は入っていない)

で何が言いたいのかというと制感法との比較であるがpcが動かなくなってきたので

つづく